【西国三十三所巡礼】巡礼を始めるにあたって

西国三十三所巡礼

公開日 2015年6月20日 最終更新日 2015年7月5日

■西国三十三所巡礼

・今年のG・Wに高知旅行に行った際に、四国八十八箇所巡礼に該当するお寺を訪問する機会がありました。
それぞれのお寺に魅了され、それが、私の中で、1つも目標となり、目的ができました。
何年かかっても四国八十八か所巡礼を満願することを決意。
いろいろ調べる中で、近畿地方にも西国三十三所巡礼が唖あることを知りました。
西日本に住んでいて、知ることができた今をすごく感謝しています。
・西国についてWIKIより

 西国三十三所(さいごくさんじゅうさんしょ、さいこくさんじゅうさんしょ)は、近畿2府4県と岐阜県に点在する33か所の観音信仰の霊場の総称。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れている。

「三十三」とは、『妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五』(観音経)に説かれる、観世音菩薩が衆生を救うとき33の姿に変化するという信仰に由来し、その功徳に与るために三十三の霊場を巡拝することを意味し、西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされる。

 

三十三所巡礼の起源については、中山寺の縁起である『中山寺来由記』、華厳寺(三十三番札所)の縁起である『谷汲山根元由来記』などに大略次のように記されている。

養老2年(718年)、大和国の長谷寺の開基である徳道上人が62歳のとき、病のために亡くなるが冥土の入口で閻魔大王に会い、生前の罪業によって地獄へ送られる者があまりにも多いことから、日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば滅罪の功徳があるので、巡礼によって人々を救うように託宣を受けるとともに起請文と三十三の宝印を授かり現世に戻された。そしてこの宝印に従って霊場を定めたとされる。上人と弟子たちはこの三十三所巡礼を人々に説くが世間の信用が得られずあまり普及しなかったため、機が熟すのを待つこととし、閻魔大王から授かった宝印を摂津国の中山寺の石櫃に納めた。そして月日がたち、徳道は隠居所の法起院で80歳で示寂し、三十三所巡礼は忘れ去られていった。

徳道上人が中山寺に宝印を納めてから約270年後、花山院(安和元年〈968年〉 – 寛弘5年〈1008年〉)が紀州国の那智山で参籠していた折、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた三十三の観音霊場を再興するように託宣を授けた。そして中山寺で宝印を探し出し、播磨国書写山圓教寺の性空上人の勧めにより、河内国石川寺(叡福寺)の仏眼上人を先達として三十三所霊場を巡礼したことから、やがて人々に広まっていったという(中山寺の弁光上人を伴ったとする縁起もある)。仏眼が笈摺・納め札などの巡礼方式を定め、花山院が各寺院の御詠歌を作ったといい、現在の三十三所巡礼がここに定められたというのである。

■巡礼の旅

・6/20の興福寺南円堂から西国の巡礼をスタートさせました。
・休みを利用して、満願を目指していきます。