【西国三十三所巡礼】北法相宗 音羽山 清水寺(第十六番札所)

西国三十三所巡礼

公開日 2016年9月4日 最終更新日 2016年9月11日

■清水寺


今回が、9寺目、京都の清水寺へ行ってきました。
清水寺は、訪問回数が10回弱と、京都の寺院の中でもかなり訪問している
お寺です。

朝ご飯を済ませ、五条通を歩きながら清水寺へ。
朝の10時過ぎでしたが、参道は、かなりの環境客のみなさん
そして、外国の方が非常に多い・・
快晴の今日は、非常に暑く、歩くと汗が止まりません。
適度な水分補給を繰り返しながら、参拝に向かいました。

清水の舞台からの京都市内の眺めは、快晴のため素晴らしいです。
京都タワーなどもはっきり見えて、門の朱色も青空と入道雲によく映えます。
本堂にお参りをし、ご朱印を受けに。

途中記念撮影をし、音羽の滝でお水をいただきました。

その後、こちらでもご朱印を受け、お寺を後にします。

清水寺は、いつ来ても人が多いのが特徴です。
25年前に修学旅行できたのが初めてですが、来るたびに新鮮味を覚えるのも
お寺参拝のいいところかと思います。

 

■写真

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■WIKIより

創建伝承[編集]

清水寺の創建については、『群書類従』所収の藤原明衡撰の『清水寺縁起』、永正17年(1520年)制作の『清水寺縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)に見えるほか、『今昔物語集』、『扶桑略記』の延暦17年(798年)記などにも清水寺草創伝承が載せられている。これらによれば、草創縁起は大略次の通りである。

宝亀9年(778年)、大和国興福寺の僧で子島 で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」と言い残し、去っていった。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。

その2年後の宝亀11年(780年)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758年 – 811年)は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り、ともに祀った、という。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。

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