公開日 2021年5月2日 最終更新日 2021年5月2日
◆瑞泉寺
~数奇な運命をたどった豊臣秀次公を祀ったお寺、春は梅の花が美しいです~【日本の街・京都市(京都)】
▼外観写真
▼内観写真
・撮影日:2021/03/06 |
|
▼建物・史跡情報
場所 |
瑞泉寺 |
住所 |
京都府京都市中京区木屋町三条下ル石屋町114-1 |
電話番号 |
075-221-5741 |
定休日 |
– |
営業時間 |
7:00~17:00 |
予約など |
– |
料金 |
無料 |
席数 |
– |
駐車場 |
無し |
開店日 |
慶長16年(1611年) |
ウェブサイト |
http://zuisenji-temple.net/ |
▼地図とアクセス
▼謂れ
WIKIより
桃山時代ここは三条河原の中洲であった。慶長16年(1611年)、京都の豪商角倉了以によって高瀬川を開く工事が行われているときに、偶然発見された石に秀次悪逆塚と刻まれていた。それは文禄4年(1595年)自害させられた豊臣秀次の石塔だった。実は高瀬川の開削責任者だった角倉了以の実弟吉田宗恂(医師)は、秀次に仕えていたことがあり、彼は秀次事件への連座は免れたが、前年の慶長15年(1610年)に死去していた。
慶長16年は宗恂の一周忌にもあたることから、了以と立空桂叔(浄土宗西山派僧侶)は、秀次の菩提を弔うために江戸幕府の許可を得て堂を営むこととし、秀次の戒名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」から寺号を取って、瑞泉寺を建立した。以後、瑞泉寺は400年間にわたり秀次事件により死罪となった秀次と連座した一族・家臣の菩提を供養している。
秀次供養塔
瑞泉寺境内にある秀次供養塔、中央に碑銘の削られた中空の石櫃
文禄4年(1595年)7月、秀次は叔父豊臣秀吉から謀反を疑われ関白の職を剥がれて高野山に追放された。7月15日(8月20日)、賜死を命じられた秀次は切腹した。山本主殿、山田三十郎、不破伴作など家臣5人もまた殉死した。秀吉は伏見で首実検し、8月2日(9月5日)、秀次の首は三条河原で梟首(キュウシュ。さらし首)されることになるが、その時に秀次の妻妾、幼児などを合わせて30余人が打首とされた。遺体は秀次の首とともに河原に埋められ、塚、石塔が建てられて(石櫃に)「秀次悪逆塚文禄四年七月十四日」と刻されたという。この首塚と墓は、殺生塚、関白塚、摂政塚、畜生塚などと称され、かえりみる者は無かったが、慶順という行者はそのかたわらに草庵を結び、菩提を弔った。
慶順の死後、洪水で塚が荒れ、角倉了以が石櫃を発見したのは前述の通りである。了以はその際に石塔(石櫃)の「秀次悪逆」の4文字を削り、その上に6角形の無縁塔を建てた。このような経緯から秀次供養塔は「秀次悪逆塚」とも言うが、現在も碑銘の削られた姿で残る。
|
▼御朱印
▼訪問履歴
■訪問日:2021年03月06日
|
2021年3月6日に訪問しました。
三条木屋町を下がった東側にお寺はあります。
数奇な運命をたどった豊臣秀次公を祀ったお寺です。
戦国の世においては当たり前だったのかもしれませんが、親族身内同士でも、命を落とさなければ行けないのは
なんとも切なさを感じます。
そんなお寺の境内から木屋町通に梅の香りが・・・
吸い寄せられるように境内に。
1本のきれいな梅の木が花をつけています。
妻と、じっくりのんびり、梅の花見です。
春がやってきたのを感じながらの次官となりました。
境内には秀次公を祀ったお墓があります。 |
|
▼最後に